名所、史跡、文化財  

 門真市内の指定文化財は、国指定天然記念物1件、府指定天然記念物1件、府指定史跡1件、府指定有形文化財1件と14の埋蔵文化財包蔵地があり、その一部を紹介します。

薫蓋(くんがい)クス(三ツ島)

  三島神社境内にある国指定天然記念物(大阪府下には国指定天然記念物の樹木は、能勢町野間の大ケヤキ、堺市妙国寺のソテツ、岸和田市和泉葛城山ブナ林の4件のみです)のクスノキで、樹高約25m、幹周12.5m、推定樹齢は約1000年といわれています。昭和13年5月30日に天然記念物に指定されました。
 「薫蓋クス」の名称は、根元にある左少将千種有文の歌碑「薫蓋樟 村雨の雨やどりせし唐土の 松におとらぬ楠ぞこのくす」が由来になっています。

 

(ひえじま)のクス(
 このクスは、樹高約10m、幹周7mで、地上1m余りで三幹にわかれ、枝は四方に広がり、生育は良好です。市内の樹木では薫蓋クスに次ぐ規模があり、推定樹齢は約400年です。また、このクスは民家に所在するクスとしては珍しい巨樹で、昭和45年2月20日、大阪府の天然記念物に指定されています。

 

願得寺(御堂町)

本堂(外観)
 18年1月20日付けで、本堂・鐘楼(しょうろう)・山門が、建造物としては市内で初めての府文化財に指定されました。玄関・客間・書院・太鼓楼(たいころう)は17年11月18日付けで国の登録有形文化財になっています。
 願得寺は15世紀末に本願寺第8世蓮如(れんにょ)上人が当地に開いた念仏道場が始まりです。
その後16世紀後半に蓮如の第23子実悟(じつご)が当道場を譲り受け、加賀国剣村(石川県白山市)で住持をしていた願得寺の寺号を移して、願得寺と号すようになりました。 開発が進む都市部にありながら、巨木とともに歴史的な景観を良好に保つ貴重な文化財です。 
 本堂は寛文5年(1665)に再建されたもので、入母屋造本瓦葺(いりもやづくりほんかわらぶき)の堂々とした建物で、正面に向拝(こうはい)がつく近世真宗本堂初期の形を伝えています。鐘楼は切石積みの基壇上に建てられた切妻造本瓦葺で、一部原形を損ないますが、寛永(1624〜43)ころの様式を伝える当寺最古の遺構です。山門は四脚門(しきゃくもん)の形式で、元禄6年(1693)の再建と考えられます。古い部材の使用や大規模な改修が認められるものの、寺院の構成要素として貴重なものです。

△up

伝茨田堤(でんまんだのつつみ)(宮野町)
 「茨田堤」というのは、古事記・日本書紀に記述がみえる最古の堤防で、5世紀ごろ淀川の洪水を防ぐため、渡来人などの技術を用いて築かれたようです。
 宮野町には、延喜式内社の堤根神社が鎮座する堤防の跡が残っており、これが現在地上に残る唯一の「茨田堤」跡と推定され、昭和48年3月29日に大阪府の史跡「伝茨田堤」に指定され、昭和58年5月2日に堤根神社の西側が史跡の追加指定を受けています。

 

普賢寺遺跡出土 金銅僧形坐像(こんどうそうぎょうざぞう)・金銅密教法具(こんどうみっきょうほうぐ)(府教育委員会所蔵)
金銅僧形坐像
 像高1.2pの小像ながら、右腕をねじり胸の前で金剛杵(こんごうしょ)を持ち、左手は念珠を膝前で執ることから弘法大師と考えられます。

金銅密教法具
 火舎香炉(かしゃこうろ)1口、蓋(ふた)1枚、椀(わん)5口、台皿(だいさら)6枚で構成され、密教寺院で使用する供養具の六器(ろっき)などと考えられます。
 いずれも鎌倉時代に製作された優れた作品で、保存状態のよいものです。

△up

砂子水路の桜(すなごすいろのさくら)(三ツ島)
 「大阪みどりの百選」の第2位に選ばれた砂子水路の桜。500mの水路の両岸に約200本のソメイヨシノが見事に咲きそろい、市内で一番の桜の名所です。弁当を広げたり、夜桜を楽しんだりして、シーズン中は大勢の花見客であふれます。
《交通》
京阪電車「大和田駅」から京阪バス「地下鉄門真南駅行」に乗り「三島団地前」下車
京阪電車「古川橋駅」から京阪バス「門真団地行」に乗り「三島団地前」下車
周辺に駐車スペースはありません。公共交通機関をご利用ください
砂子水路花見大会

開 花 状 況
4月10日
 砂子水路の桜
 (4月10日(金))
散りはじめ
 
4月9日
4月8日
4月7日
4月9日
4月8日満開
4月7日満開
 
4月6日
4月3日
4月2日
4月6日満開
4月3日五分咲き
4月2日二分咲き
     
4月1日
3月31日
3月30日
4月1日咲きはじめ
3月31日咲きはじめ
3月30日咲きはじめ
     
3月27日
3月26日
3月25日
3月27日咲きはじめ
3月26日咲きはじめ
3月25日つぼみほころぶ
     
3月24日
3月23日
3月24日つぼみほころぶ
3月23日つぼみ膨らむ



西三荘遺跡 (門真)
 市内唯一の縄文時代から始まる遺跡。平成元年(1989)1月に遺跡の存在が明らかになりました。縄文時代後期から近世まで、一時的な断絶はありますが、各時代の遺物が出土しています。
 遺跡の性格は、発掘調査した地点が少ないため、不明な部分が多いのですが、15世紀ごろ起こった洪水により集落の相当な部分が流失したと考えられ、縄文から中世の遺物が同じ砂の層から出土し、遺構は15世紀以降のものが確認されたにすぎません。

伏見地震の際、生じた
液状化跡(噴砂)

 また、伏見地震(慶長元年 1596)の際に生じたとみられる液状化跡(噴砂)が明瞭に残っ ていたため、通産省地質調査所、守口市・門真市教育委員会を中心に液状化の調査をおこないました。研究成果は、調査後建設された建物に耐震工法をとり入れたばかりでなく、関西空港建設にもとり入れられるなど、各方面から注目された遺跡です。
 主な出土遺物は、市内で初めて出土した縄文深鉢(ふかばち)・浅鉢(あさばち)や、保存状態の極めてよい鉄鏃(てつぞく)・やす・短刀などの鉄製品です。また瓦器椀(がきわん)・土師器皿(はじきさら)などの中世土器も大量に出土しています。

△up

橋波口遺跡(本町)

奈良〜平安時代の井戸
 昭和61年(1986)に存在が明らかになった弥生時代から近世までの遺跡です。昭和62年(1987)の調査で、須恵器(すえき)の甕を棺に用いた奈良時代の墓、曲物(まげもの)を井戸枠にした奈良から平安時代の井戸、灰の詰まった大きな穴、中世の溝などが出土しました。
 奈良時代〜中世にかけてこのあたりに集落があったようです。灰の詰まった大きな穴は、平安時代後期のもので、直径約4m、深さ約1.2mあり、灰に混じって大量の土師器(はじき)や瓦器(がき)のほか、桃の核、げたなどがいずれも良好な保存状態で出土しました。多数の桃の核とあまり使用されていない土器が一括で捨てられている状況をみると、この灰の詰まった穴は、平安時代の祭祀(さいし)に関係する遺構と考えられます。

 

普賢寺遺跡(幸福町、垣内町)

 この遺跡は、京阪電車古川橋駅の北側に所在し、中世の寺院跡を中心とする、弥生時代前期から中世まで継続する複合遺跡です。  平成12年2月、土地区画整理事業に伴い発掘調査をしたところ、門真市域で初めて古墳(普賢寺古墳・ふげんじこふん)が発見されました。普賢寺古墳は6世紀初め頃に築造されたと考えられる径約30mの円墳ですが、墳丘は調査範囲外のため内部主体等は不明です。墳丘には幅約4mの周濠が巡り、調査範囲に2ヶ所、周濠の途切れたところ(陸橋)がありました。


普賢寺古墳出土
盾持人形埴輪

 周濠の内外からは、多くの埴輪が転倒した状態で出土しました。埴輪のほとんどは円筒と朝顔形円筒埴輪でしたが、蓋(きぬがさ)・鶏(にわとり)形等の形象埴輪、盾持人(たてもちびと)形埴輪も出土しました。盾持人形埴輪の頸から下は失われていましたが、三角の透かしのある帽子をかぶり、顔面には線刻で入れ墨が表現された特異なもので、特筆すべきものです。

△up

古川遺跡(御堂町、古川町)

弥生時代前期から中期初頭
の方形周溝墓(群)
 弥生時代から中世まで、集落がほぼ連続して営まれたことで注目される遺跡です。
 平成10年10月、御堂町で弥生時代前期〜中期初頭の方形周溝墓群(ほうけいしゅうこうぼぐん)が発掘されました。門真市内で方形周溝墓が発見されたのは初めてのことで、弥生時代前期の例となると、北河内でも初めて、大阪府下では6例目の発見となりました。ここでは、弥生時代前期末に方形周溝墓群が築造されることにより、遺跡が始まるのですが、住居域及び水田などの生産の場の確保が困難な環境で(当時は河内潟が広がり安定した陸地は少なかった)、これほどの墓群をどのように造り得たのか、今後の課題の多い遺跡です。

 

大和田遺跡(常称寺町、宮野町、野里町)
 昭和38年(1962)5月、京阪電車大和田駅構内で工事中に地表下2mの砂層から銅鐸(門真野口銅鐸)が3個まとめて出土しています。
 この銅鐸は弥生時代中期後半(1世紀)ごろ造られたもので、小型(高さ26.5、20.6、20.5p)で偏平な作りをしています。銅鐸が造られたころ、大和田遺跡は河内潟に面しており、そこから南の方は、急激に落込んで河内潟となっていました。大和田駅の南側を通る府道より南は、北側の砂層とは異なり、水分が多い粘土が厚く堆積しており、河内潟が後退した後は湿地になったようです。門真野口銅鐸は国立歴史民俗博物館(千葉県佐倉市)にあります。

門真野口銅鐸
(国立歴史民俗博物館所蔵)

 

三ツ島遺跡(三ツ島)
 昭和37年(1962)8月、工事中にくり舟が出土し、遺跡の存在が明らかになりました。
 くり舟はケヤキを加工したもので、地表下1.4mで発見され、製作途中で放棄されたものと考えられています。
 全長17m、くりぬき部分は12mあり、焼きながら加工している状況を示しています。
 くり舟の製作された時期は調査時に弥生土器が出土しているので、弥生時代と推定されています。しかし、現在くり舟は原形を留めておらず、遺跡内の数度の調査でも、くり舟を初め遺跡に結びつくものは確認されていないため、遺跡の性格はよくわかっていません。

△up

 

2000 Kadoma City All rights reserved