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かどまの民話「夜泣き石」

昔、願得寺の南方、古川橋の一角に古橋の砦(とりで)があった。この辺りは水陸交通の要として、また戦いの重要な場所として栄えていた。
古川より砦に上がる石段は船乗り場になっていてそこに船のとも網を結ぶ穴のあいた石があった。村の物知りの老婆はその石のことをこんなふうに話していた。
「あの石は不思議な石なんやぁ。夜になるとピィーピィーと音をたてて泣き、特に風が強く月や星の出ていない暗い夜にはものすごう悲しそうに泣いてなあ、人々の哀れみを誘いそれでみんなはその石を夜泣き石と呼んでいたんや。」
この老婆の言葉には一つ一つ自信があふれていた。

昔、河内の国を治めていた飯盛山城主、畠山次郎昭高という人がいてこの人は天下人となった織田信長の支配下で古川の砦を兵力二五〇名で守っていた。ところが信長が近江の国で浅井・朝倉の連合軍と一大決戦に臨んでいたら、鬼の居ぬ間と四国から強力な三好の兵が砦をせめてきよった。砦に陣取った畠山軍は守る兵力二五〇名、いかに戦おうと勝ち目のない戦で勇敢に戦ったが全員討ち死にし敗れてしまった。戦死した武将の妻は夫の姿を求めて砦のほとりで幾日も幾日も泣き伏し、そしていつの間にか石となってしまった。石となった妻は夜になると夫を呼ぶように泣くので「夜泣き石」と呼ばれるようになり、後にこの石は豊臣秀吉大阪城築城のとき石垣に使ったと言われる。

大阪城と石のイラスト

ところがまた不思議なことが起きた。大阪夏の陣で豊臣軍は徳川の大軍を防ぎ切れずに大阪城は落城してしまった。
そしてその石垣のどこからか「ピィー、ピィー」とまた悲しそうに泣き声が聞こえ始めた。
「これはきっと古橋の砦で泣いていた夜泣き石に違いない。」
とどこからともなくうわさは広まり、いつの頃からか、夜泣きをする赤ん坊がいれば夜泣き石のそばにある小石を持って帰ると夜泣きが治るとも言われ、明治の始め頃まで続いていた。今では石垣の夜泣き石も所在不明で昔物語になっている。

出典

門真市PTA協議会 母親代表委員会(平成14年度)『かどまの民話』

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