かどまの民話「蛙石」

更新日:2019年10月31日

守口街道の道標のあるその東の橋が古川橋である。古くは木の橋で欄干付きであった。子供たちはこの欄干から飛び込んで水泳をして遊んでいたそうな。
明治になってから石橋に付け替えられたが、橋の東側になぜか80センチぐらいの石がまるで下流を見つめているようにあった。

うーんと昔のことやった。豊臣秀吉が亡くなったあと、石田三成を中心とする西軍と徳川家康を中心とする東軍とで天下分け目の関ヶ原の戦いが起こった。その時、横地村(よこちむら)の作兵衛(さくべえ)さんら数名のものが西軍の物資運搬としてやとわれた。
作兵衛は妻のおとまに 「この戦いがすんだら沢山のお金を持って帰るからな。なぁに心配することはない。必ずみんなと一緒に、この船でおまえのところに戻ってくるから。」といい、勇ましく出かけていった。

それから幾日かたち戦いがさかんになり、おとまさんも一人で細々と暮らす毎日であった。戦いはだんだんと西軍が不利になり、むなしくも西軍が敗れたという知らせが伝わってきた。やがて一行がぼちぼちと村に帰って来た。だがなぜか作兵衛さんだけがまだ帰って来なかった。
「どうしたんだろう、作兵衛さん。」
おとまさんは一人一人に聞いてまわった。
「作兵衛さん、どうしたか知りませんか。いつ帰ってくるか教えて下さい。」
何人も聞いて回っているうちに、作兵衛さんと一緒だったという男に出会った。
「作兵衛さん、あの時はよう頑張っとったがのう、いつの間にかはぐれてしもうてなぁ。噂では敵の流弾に当たって死んでしもたんとちがうかということや。」
話を聞いたおとまさんは
「あの人が死ぬわけがあらへん。必ずあの船に乗って帰って来るに決まってる。」とこぼれそうになった涙をこらえるのだった。そして次の日から橋の渡し口で、一日中じーっと遠くを眺め作兵衛さんの帰りを待つようになり、その姿はずうーっと長く続いた。悲しそうに待っているおとまさんの姿は橋を渡る村人の涙を誘った。

カエルのイラスト

やがて半年が過ぎ、いつの間にかおとまさんの姿が見えなくなった。その頃から、なぜかおとまさんが立っていたところに蛙のような形をした大きな石がみられるようになった。
「あれは作兵衛さんの帰りを待っていたおとまさんじゃ。おとまさんの悲しみがあの石に乗り移ったんじゃ。」
と村では口々に言い伝わり、いつの間にか蛙石(かえるいし)と呼ばれるようになった。

その後、蛙石は大阪城の堀の上に移され、現在では奈良市の元興寺(がんごうじ)に移されている。それまでは怨念が宿るたたり石と呼ばれていたが、元興寺で懇ろに供養され極楽堂に向いていることから「極楽カエル」と言われるようになり、「福カエル」「無事カエル」の祈願として訪れる人が増えているそうな。

出典

門真市PTA協議会母親代表委員会(平成14年度)『かどまの民話』

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