名所・史跡・文化財

更新日:2024年04月09日

門真市内の指定文化財は、国指定天然記念物1件、府指定天然記念物1件、府指定史跡1件、府指定有形文化財1件と15の埋蔵文化財包蔵地があり、その一部を紹介します。

砂子水路の桜(すなごすいろのさくら)(三ツ島)

満開の桜の下、舟が運航する砂子水路の写真

砂子水路は三ツ島東部を南北に縦断する水路です。500メートルある水路の両岸に約200本のソメイヨシノが植えられていて、春には市内で一番の桜の名所になります。その風景は「大阪みどりの百選」に選ばれています。

行き方や、砂子水路桜並木保存会の皆さんによる舟の運行情報、そのほかの桜の名所はこちらをご覧ください。

薫蓋(くんがい)クス(三ツ島)

薫蓋クスの写真

薫蓋クスは三島神社境内にある国指定天然記念物のクスノキで、樹高約24メートル、幹周りは13.1メートルあり、「大阪みどりの百選」にも選ばれています。

大阪府下の国指定天然記念物の樹木は、能勢町野間の大ケヤキ、堺市妙国寺のソテツ、岸和田市和泉葛城山ブナ林、薫蓋クスの4件のみです。

「薫蓋クス」の名称は、根元にある江戸時代後期の公卿・千種有文の歌碑「薫蓋樟 村雨の雨やどりせし唐土の 松におとらぬ楠ぞこのくす」が由来になっています。

薫蓋樟保存会の皆さんにより、大切に保護・保存されています。

薭島(ひえじま)のくす(ひえ島町)

薭島のクスの写真

このクスは、樹高約10メートル、幹周り約8メートルで、地上1メートル余りで三幹にわかれ、枝は四方に広がり、生育は良好です。市内の樹木では薫蓋クスに次ぐ規模があり、推定樹齢は約400年です。また、このクスは民家に所在するクスとしては珍しい巨樹で、昭和45年(1970)2月20日、大阪府の天然記念物に指定されています。

願得寺(御堂町)

願得寺外観の写真

本堂(外観)

願得寺は真宗大谷派の寺院で、永禄年間(1558~1570)に蓮如の子・実悟が当地に創建しました。

遺構の多くは17世紀につくられ、玄関・書院・客間・太鼓楼は国の登録有形文化財に、また本堂・鐘楼・山門は大阪府の指定有形文化財に指定されており、往時の威容を偲ぶことができます。

本堂の南側には墓地があり、第44代総理大臣・幣原喜重郎を輩出した幣原家の累代の墓と父・新治郎の墓があります。

伝茨田堤(でんまんだのつつみ)(宮野町)

伝茨田堤の写真

「茨田堤」というのは、古事記・日本書紀に記述がみえる最古の堤防で、5世紀ごろ淀川の洪水を防ぐため、渡来人などの技術を用いて築かれたようです。 宮野町には、延喜式内社の堤根神社が鎮座する堤防の跡が残っており、これが現在地上に残る唯一の「茨田堤」跡と推定され、昭和49年(1974)3月29日に大阪府の史跡「伝茨田堤」に指定され、昭和58年(1983)5月2日に堤根神社の西側が史跡の追加指定を受けています。

黄梅寺(おうばいじ)(堂山町)

黄梅寺(おうばいじ)の写真

黄梅寺は禅宗曹洞宗の寺院で、寺伝によると天文15年(1546)に室町幕府13代将軍・足利義輝が創建したといわれています。

飛鳥時代後期の誕生釈迦仏立像などの仏像のほか、多くの禅画や禅僧の書があります。

黄梅寺の門の横には「斎宮 茨田真手御宿所跡」と記された碑があり、伊勢神宮に奉仕した斎宮が任を解かれ京へ帰る際の宿所が当地にあったとされています。

一休生母の墓(下三ツ島公園内)

一休生母の墓の写真

室町時代中期の禅宗臨済宗の僧・一休宗純の生母の墓とされている墓で、下三ツ島公園の一角にあります。一休の生母は後小松天皇の官女で、一休を産んだのち早世したとされています。

三ツ島に墓があるのは、生母の父親・楠正澄(楠正成の孫)が南北朝の動乱による室町幕府の追求からのがれるため三ツ島に隠れ住んだことから、彼女も三ツ島に身を寄せたものと考えられます。

幣原兄弟顕彰碑(一番町)

幣原兄弟顕彰碑の写真

幣原坦(たいら)・喜重郎兄弟を顕彰した碑で、生家跡に建っています。
兄・坦は歴史学者・教育行政官で台北帝国大学総長などをつとめました。弟・喜重郎は大正末期から昭和前期にかけて外務大臣をつとめ「協調外交」を展開し、終戦後の昭和20年(1945)10月9日には第44代内閣総理大臣に親任され、戦後日本の民主化に尽力しました。

普賢寺遺跡出土 金銅僧形坐像(こんどうそうぎょうざぞう)(府教育委員会所蔵)

金銅僧形坐像(こんどうそうぎょうざぞう)の写真

像高1.2センチメートルの小像ながら、右腕をねじり胸の前で金剛杵(こんごうしょ)を持ち、左手は念珠を膝前で執ることから弘法大師と考えられます。

普賢寺遺跡出土 金銅密教法具(こんどうみっきょうほうぐ)(府教育委員会所蔵)

金銅密教法具(こんどうみっきょうほうぐ)の写真

火舎香炉(かしゃこうろ)1口、蓋(ふた)1枚、椀(わん)5口、台皿(だいさら)6枚で構成され、密教寺院で使用する供養具の六器(ろっき)などと考えられます。
いずれも鎌倉時代に製作された優れた作品で、保存状態のよいものです。

西三荘遺跡(大字門真)

伏見地震の際に生じた液状化跡(噴砂)の写真

伏見地震の際に生じた
液状化跡(噴砂)

市内唯一の縄文時代から始まる遺跡。平成元年(1989)1月に遺跡の存在が明らかになりました。縄文時代後期から近世まで、一時的な断絶はありますが、各時代の遺物が出土しています。
遺跡の性格は、発掘調査した地点が少ないため、不明な部分が多いのですが、15世紀ごろ起こった洪水により集落の相当な部分が流失したと考えられ、縄文から中世の遺物が同じ砂の層から出土し、遺構は15世紀以降のものが確認されたにすぎません。

また、伏見地震(慶長元年 1596)の際に生じたとみられる液状化跡(噴砂)が明瞭に残っていたため、通商産業省地質調査所(当時)、守口市・門真市教育委員会を中心に液状化の調査をおこないました。研究成果は、調査後建設された建物に耐震工法をとり入れたばかりでなく、関西空港建設にもとり入れられるなど、各方面から注目された遺跡です。
主な出土遺物は、市内で初めて出土した縄文深鉢(ふかばち)・浅鉢(あさばち)や、保存状態の極めてよい鉄鏃(てつぞく)・やす・短刀などの鉄製品です。また瓦器椀(がきわん)・土師器皿(はじきさら)などの中世土器も大量に出土しています。

橋波口遺跡(本町)

奈良~平安時代の井戸の写真

奈良~平安時代の井戸

昭和61年(1986)に存在が明らかになった弥生時代から近世までの遺跡です。昭和62年(1987)の調査で、須恵器(すえき)の甕を棺に用いた奈良時代の墓、曲物(まげもの)を井戸枠にした奈良から平安時代の井戸、灰の詰まった大きな穴、中世の溝などが出土しました。

奈良時代~中世にかけてこのあたりに集落があったようです。灰の詰まった大きな穴は、平安時代後期のもので、直径約4メートル、深さ約1.2メートルあり、灰に混じって大量の土師器(はじき)や瓦器(がき)のほか、桃の核、げたなどがいずれも良好な保存状態で出土しました。多数の桃の核とあまり使用されていない土器が一括で捨てられている状況をみると、この灰の詰まった穴は、平安時代の祭祀(さいし)に関係する遺構と考えられます。

普賢寺遺跡(幸福町、垣内町)

普賢寺古墳出土盾持人埴輪の写真

普賢寺古墳出土
盾持人埴輪

この遺跡は、京阪電車古川橋駅の北側に所在し、中世の寺院跡を中心とする、弥生時代前期から中世まで継続する複合遺跡です。 平成12年(2000)2月、土地区画整理事業に伴い発掘調査をしたところ、門真市域で初めて古墳(普賢寺古墳・ふげんじこふん)が発見されました。普賢寺古墳は6世紀初め頃に築造されたと考えられる径約30メートルの円墳ですが、墳丘は調査範囲外のため内部主体等は不明です。墳丘には幅約4メートルの周濠が巡り、調査範囲に2ヶ所、周濠の途切れたところ(陸橋)がありました。

周濠の内外からは、多くの埴輪が転倒した状態で出土しました。埴輪のほとんどは円筒と朝顔形円筒埴輪でしたが、蓋(きぬがさ)・鶏(にわとり)形等の形象埴輪、盾持人(たてもちびと)埴輪も出土しました。盾持人埴輪の頸から下は失われていましたが、三角の透かしのある帽子をかぶり、顔面には線刻で入れ墨が表現された特異なもので、特筆すべきものです。

盾持人(たてもちびと)埴輪は令和6(2024)年3月1日に門真市指定文化財第1号に指定されました。

古川遺跡(御堂町、古川町)

弥生時代前期から中期初頭の方形周溝墓(群)の写真

弥生時代前期から中期初頭
の方形周溝墓(群)

弥生時代から中世まで、集落がほぼ連続して営まれたことで注目される遺跡です。 平成10年(1998)10月、御堂町で弥生時代前期~中期初頭の方形周溝墓群(ほうけいしゅうこうぼぐん)が発掘されました。門真市内で方形周溝墓が発見されたのは初めてのことで、弥生時代前期の例となると、北河内でも初めて、大阪府下では6例目の発見となりました。ここでは、弥生時代前期末に方形周溝墓群が築造されることにより、遺跡が始まるのですが、住居域及び水田などの生産の場の確保が困難な環境で(当時は河内潟が広がり安定した陸地は少なかった)、これほどの墓群をどのように造り得たのか、今後の課題の多い遺跡です。

大和田遺跡(常称寺町、宮野町、野里町)

門真野口銅鐸3個の写真

門真野口銅鐸
(国立歴史民俗博物館所蔵)

昭和38年(1963)5月、京阪電車大和田駅構内で工事中に地表下2メートルの砂層から銅鐸(門真野口銅鐸)が3個まとめて出土しています。
この銅鐸は弥生時代中期後半(1世紀)ごろ造られたもので、小型(高さ26.5、20.6、20.5センチメートル)で偏平な作りをしています。銅鐸が造られたころ、大和田遺跡は河内潟に面しており、そこから南の方は、急激に落込んで河内潟となっていました。大和田駅の南側を通る府道より南は、北側の砂層とは異なり、水分が多い粘土が厚く堆積しており、河内潟が後退した後は湿地になったようです。門真野口銅鐸は国立歴史民俗博物館(千葉県佐倉市)に所蔵されています。

三ツ島遺跡(三ツ島)

昭和37年(1962)8月、工事中にくり舟が出土し、遺跡の存在が明らかになりました。
くり舟はケヤキを加工したもので、地表下1.4メートルで発見され、製作途中で放棄されたものと考えられています。
全長17メートル、くりぬき部分は12メートルあり、焼きながら加工している状況を示しています。
くり舟の製作された時期は調査時に弥生土器が出土しているので、弥生時代と推定されています。しかし、現在くり舟は原形を留めておらず、遺跡内の数度の調査でも、くり舟をはじめ遺跡に結びつくものは確認されていないため、遺跡の性格はよくわかっていません。

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